020 芙蓉乃命使ってどんな方? えー、断るな神って、、、

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芙蓉乃命使ってどんな方?

芙蓉の命使と申し上げても青年の方々は、「神様と私」の中で「うちの嫁」と出て
くる方、とか豊明神使の奥様としかわからないのではないでしょうか。

せっかく豊魂君が「豊明神使、芙蓉様の思い出が風化しないように」と作って下さ
いました担風会。
昨年の三月の御親謁「先輩愛子の勇気と忍の一字」と御玉講にございました
先輩愛子として、芙蓉乃命使が歩んできた道を書かせて頂きます。

豊明神使と芙蓉乃命使はお見合いでの結婚でした。御母のもとへ芙蓉乃命使の釣書が
届けられた時、父神はこの娘に決めなさいとおっしゃられたそうでございます。
その頃名古屋の予科練(軍隊に入る為の準備機関)に入っていました豊明神使の元に
お見合いの連絡の電報が届きました。何時という知らせの末尾に「断るな、神」と
書かれていたそうです。
これほどまでに見込んでいただきました芙蓉乃命使。穏やかで懐が深く、芯が強い。
行動力がありどんな時でも明るくマイナスの言葉を聞いたことがございません。

深窓の令嬢だった芙蓉乃命使は、結婚まではお抱えの運転手の車に乗って、
ばあやと出かけていたのですが、
豊明神使と結婚してからは、御母から賜ったピンクの羽織を着て、御母に
厳しく御指導頂いた神使用の御祝詞で地鎮祭、御入神式、誘導、育成をして、
御本部からどこどこに誰々の子供、親戚がいるからとのご連絡に、電車に
乗って関東一円飛び回っておりました。真冬に2時間以上かかる場所で
御入神式をして真夜中近くに帰宅ということもございました。誘導に行って、
その家のお婆さんが狐のように急に跳ねてタンスの上に飛び上がり跳ね回って、
みんなで取り押さえてその日は誘導にならなかったということもありました。
不撓不屈という言葉がぴったりのような毎日でした。
御母から御神訓御神歌の振りを教えて頂き神使の方にお伝えさせていただいた事も
ございました。
この頃の豊明神使は会社員から自分の会社を起こし、生活の基盤を築くので一杯で
御本部の事は芙蓉乃命使がして東京の会のほとんど全てをもこなしていました。
この頃御本部から会の名前をつけるようにというお知らせが入り、万場一致で芙蓉会
にと言われ固辞したこともございました。

こんな活躍をしていました芙蓉乃命使ですが、豊明神使が奉帥使になってからは隣で
支える役に徹しておりました。奉帥使になってからの豊明神使の活躍はめざましく、
愛子のかたが増え続け、神謳会を二つに分け、第一、と第二として、そのうちまだ
大きくなり、第三神謳会まで作り上げました。(その後仙台も東京の一部として立ち
上げました)この頃は大祭、子供会、明星祭、豊明神使が台本を書いて御本部で劇が
上演されました。
舞台で使う衣装、小物、全て芙蓉乃命使の指導の元に作られました。子供会の
劇の為に一週間位の合宿も自宅で世話をしました。青年の舞楽の錬成では本番近く
になると毎日のように錬成がありましたが、青年の方々の中には会社からマイクロ
バスで直接そのまま錬成に来られる方々もいらして、来られる方々も本当に頑張って
大変でしたが、その方々のお風呂の用意をして、食事の支度をと全て芙蓉乃命使が
して迎えておりました。

その頃家に手伝いにいらして下さったかたが、ある時こんな事をおっしゃって下さい
ました。芙蓉様は本当にすごい方です。何人ものお風呂と食事の用意、どんなに大変
か。それなのに一度も嫌な顔をされたことがありません。
私も結婚して同じような立場になって改めて、芙蓉様の凄さがわかりました。
とても同じ様にはできません。芙蓉様は本当にすごいかたです。とおっしゃられて
いました。
自宅で愛子の方の結婚式をしたことがあります。数十人分の食事を全部手作りで
整えていました。

この様な愛子の方々のお世話はもちろん、全国からいらした
愛子の方々の病院へのお世話もしておりました。
親族にとても偉い医者がいて東大の医学部の教授もほとんどその方の弟子にあたる
ので、難病だったり名医に掛かる必要があったり、また今では不妊治療は行き渡っ
ていますが、そういう言葉もなかった時代のこの分野のトップの方に見ていただいて
お子さんが授かったり。
御母から芙蓉に頼めとおっしゃられて東京へいらした愛子の方々には必ず
芙蓉乃命使が病院へ付き添って行きました。
御母は医者に力を送るとおっしゃられていらっしゃいましたので、愛子の方々は
御力をその道の名医に送っていただけました。

芙蓉乃命使は料理、洋裁、裁縫なんでも素晴らしくできましたが、特に素晴らし
かったのは日本画でした。丹阿弥岩吉という方に師事して、この方は横山大観の
最後の内弟子だった方ですが、この方の弟子の中では一番上手でした。湯河原に
いた時ですが、自分の腕がどの位か知りたくて、神奈川県の県展に出品したことが
ありました。全作品中トップの県知事賞を頂き、後日自宅で神奈川ラジオの取材を
受けていました。
この芙蓉乃命使の美的センスを御母は大事に思ってくださり、金の御宝冠から花の
御宝冠に変えられる時、御本部から御宝冠にする花のご依頼がありました。
試行錯誤をしてアートフラワーという技法で白い生地を花びらの形に切って、一枚
一枚にぼかしながら染色し、コテをかけて花の形に組み立てるという方法で作り
ました。
御親謁にお被りになられるので、毎月色、形、材質様々に工夫を凝らして、作らせ
て頂きました。一人では大変でしたので、技術のいらない、布のカットとか、力仕事
のコテを私も手伝わせて頂きました

「断るな、神」これほどまでに見込んでいただきました芙蓉乃命使。
本人の資質、穏やかで懐が深く、芯が強い、様々な才能このことが大事ではあった
事は勿論でございますが、その他にも芙蓉乃命使でなければならないことがござい
ました。
「神様と私」にも出ておりました「新偶様」。昨年(令和二年)六月の御資料にも
ございました「新偶様」この方は芙蓉乃命使の母親のいとこです。
婚約がきっかけで大阪から御母に逢いに来られました。豊明神使との婚約がなければ
東京に来られることはなかったと思われます。
余談ではございますが、芙蓉乃命使の父親は手広く家具の会社を経営しておりましたが、
そのことも御母のお役に立つことができました。「神様と私」に出ておりますが
東京から上之保村へお引越されるとき
「ビール瓶のかけらまで詰め込んで帰れた事の幸せを」と書かれてございましたが、
これは職業柄、家具運送用のコンテナを持ち、詰めるのもプロ。
全てを運ぶという事でなんとビール瓶のかけらまで梱包してしまったそうです。

関東一円を御式典、育成、誘導で回っていた時、御母におっしゃっていただいた事が
ございます。「今は大変でも最後に愛が残るよ」と。
御親謁、感謝祭に参座させて頂く度に芙蓉様には本当にお世話になってとお礼の言葉
をかけられます。この事を母に報告する度に、御母のおっしゃって下さった通りね。
幸せね。御母のおかげねといつも申しておりました。

昨年令和二年二月二十一日、御母天上御帰還御現示祭記念日の佳き日に精華として
暫しの眠りにつかせて頂きました。
いつもは柔和な母ですが、キリッとした顔をしておりました。
御母臨命慈生真の御姿に来世も頑張りますと申し上げている様でございました。

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