豊明神使回想録

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まえがき

 この回想録は、湯河原在住中に父豊明神使が書き記し、また口述したものを、妹が軍隊用語、地名等調べ、解説した物を書き加えて読みやすく書き直してくれたものです。
妹の貢献がなければこの回想録は日の目を見なかったでしょう。妹に感謝しながら、父の回想録を記させて頂きます。

  豊明神使回想録

中学(府立三中・・・現在の両国高校)の卒業を間近にして、寶主様に突然、「師範学校を受けろ」と言われ、「師範学校は兵隊に行かぬから」と言われました。事実、小学校の教師であった親父(勇祚様)は、軍隊にいっていなかったので、その通りにして大泉師範学校(現在の学芸大学)を受験しました。私は、それまで東京商科大学(現在の一橋大学)に入学するつもりでいましたから、大変不服でした。しかも、私が師範学校へ入学した年から師範学校生も、兵隊検査を受けることになり、それ自体いずれは戦争に行く、ということですから、全然話が違うではないかと寶主様に喰ってかかりました。今から思うと恥ずかしいことをと後悔して居ります。
寶主様は一言も言わずに、終始黙って居られました。でも、私が師範学校に通っている間に、上之保村の青年団に召集令状が届きました。
 軍隊は、本籍地の軍隊に入ることが決められていましたので、上之保村が本籍地の私は、そのままでしたら召集令状を受け取り、戦地に行っていました。
 しかし、徴収延期の認められていた師範学校に入学していたため、当時私には、召集令状が来ませんでした。大きな御水脈引きを感じるものです。
 そして、師範学校の2年を終えて一橋大学を受験しました。合格発表の当日、発表までの時間を大学の在る武蔵野の草原で、私は寝転んで寶主様も、見渡す限りの緑や草花を楽しまれながら、春の陽だまりの中を、二人でのんびりと待っていたのも、懐かしい思い出です。

 戦況は年々激しくなりました。
 一ツ橋大学卒業後、予備士官学校に入り、その後、将校として高射砲隊に入り、70人の部下を持つ少尉として、戦地に赴きました。高射砲は、空中の目標(敵の飛行機)を地上から射撃するものです。
 予備士官学校は、中部八部隊に赴任、野砲隊に半年いて、高射砲隊に転属しました。野砲隊は、六頭立ての馬で引く大砲、野砲等を抱えた部隊です。
 野砲隊では乗馬演習があり、最初は皆、裸馬に乗せられて、馬に慣れさせてから初めて鞍をつけて乗らせて貰いました。乗馬は難しく落馬した兵も沢山おりました。
 馬はとても利口で、初心者だとわかるとからかい、鼻でせせら笑うという感じでバカにしましたが、私は大学時代、中距離の選手で、これも親に感謝ですが運動神経があり、馬にバカにされないで済みました。
 直ぐに仲良くなり馬と一緒に馬の足元で寝ました。可愛いものでした。

 皆が幹部候補生で入りましたが、序列は入隊順で、昼間は演習で疲れきり、夜は、上級兵に軍人精神を叩き込んでやると言われて、何もしないのにじょうか(上靴)という営舎内用スリッパで顔面を往復力一杯、口の中が切れるほど叩かれました。
二十日間毎晩続きました。口が開かないため、食事もろくに出来ず水で流し込んでいたので、皆、見る間に、げっそりと痩せて行きましたが、自分だけではなく同期の隊員全員の体験ですので、軍隊とはこんなものなのだと思って辛いとは思いませんでした。
丈夫に生んでもらい親に感謝しました。
 同期の者も上級兵になった際、入隊してきた者達に、私はしませんでしたが軍人精神の叩き込みをしていました。軍隊は、とにかく厳しいものだと最初に身をもって体験しました。

 その野砲隊の時、赤倉(新潟県)に行って、射撃場で敵を想定しての実弾射撃をやりました。
通常より緊張感は高まりましたが、実際に敵が居るわけではないので恐怖心はありませんでした。丁度、晩秋から冬にかけての頃で、寒さに震えもしましたが周りの山々の紅葉のあまりの美しさに、重い大砲をガラガラ引きずりながら、目を奪われ感動を覚えていたものです。

 その頃、士官学校のある名古屋まで芙蓉(当時婚約者)が出てきたことがありました。許可をもらい少しだけ会いました。喫茶店に入りましたが、店にはお茶もありませんでした。水だけ飲みながら話をしていました。そのような時代でした。

 少尉任官後、福井県鯖江で編制があり、三部隊に分かれてフィリピン、台湾、沖縄の三地域に征くことになりました。私は、内地(日本国内)沖縄を望んでいました。
 指令の出る朝、集合ラッパが鳴り、軍靴の紐を結んでいた私は、元来の不器用さが手伝ってなかなかうまくいかず、その朝は何時にも増して時間が掛かってしまい、焦りながら幾度もやり直してはやっと結び、冷や汗をかきながらバタバタと遅れて集合場所に駆けて行きました。その時は整列の順までは特に決められていませんでしたので、友達の顔を見つけたので慌ててその横に立ちました。
 指令は友達の所までが、沖縄、私のところからが台湾でした。

 私の意とはまったく違う台湾に、宝主様は、「大丈夫だから心配するな。」と、おっしゃいました。開戦を迎えて直ぐ、台湾以外のフィリピン、沖縄は激烈な戦いとなってしまった地域です。
 沖縄に征くことになった友人、大阪出身の江口さんは、「沖縄は、内地だからよかった。」と言って、笑顔で喜んで別れましたが、米国の艦隊が沖縄に上陸して、数ヶ月で沖縄全滅となり、私の友人も帰らぬ人となりました。私が行きたいと望んでいた沖縄は、玉砕。私は一命をとりとめました。

昭和19年8月28日の夕方、6千トンの輸送船に乗って下関から台湾に向けて出港しました。
台風による悪天候の中での出港で、暴風にあおられて大きな輸送船が、まるで小さなボートのように揺れていたことをはっきり憶えております。

 そんな中でしたが、出港してまもなく日本近海にいた敵の潜水艦から、早速、攻撃の的となりました。
「魚雷発見!」の、
大声で甲板に上がると、魚雷が2発こちらに向かっていました。
「射撃準備!」 「目標魚雷!」と、
号令を掛けた途端に、3番砲手、伊藤兵長が両手を広げて体を震わせ、
「撃ち方 止め!」と、怒鳴るように叫んだので見ると、魚雷を狙う大砲の向きが、自分の輸送船の船首にまともに命中する角度になっていました。
 青くなって慌てていたら、魚雷は2発そのまま我々の船の直前をすり抜けていき、隣を走っていた別の輸送船に、2発とも命中してしまいました。
 魚雷は、間違いなく手前にいる私の輸送船をねらっていました。しかし、私の船が計算外に、手間取っていて速力が出なかったため、運悪く速かった隣の船に命中してしまったのです。
 魚雷をうけた船は、瞬く間に真二つに割れて、海中に沈んでいきました。もたもたせずに全て順調にいき、速力をあげて船を進めていたら、私の船が、轟沈でした。
 台風で逆巻く波間に、消えていく輸送船にわが身を重ねてなんともいえない気持ちで、無言のまま皆でじっと見つめました。
 その時です。突然、船の中から救命ボートが2隻放り出されて、1隻には、兵隊が数人乗っており、そのまま玄界灘の急流に乗って、矢のように速く運ばれていきました。
 それを驚きと共に見つめながら、きっと、その兵隊は前の晩から、ボートの中で寝ていたに違いない、なんという強運な男がいるものだと話しました。
 ところが、その話を後に終戦直後、芙蓉の実家でしましたら、遊びに来ていた武田さんという女性が、その話を聞いていてその運のよい人は、うちの主人です。主人の話を誰も作り話だと思って信用していませんでしたけど、本当の話だったのだと大変驚いていました。
 玄界灘を、矢のように走り去った武田さんの主人は、寝ていたのではなく、撃沈された途端に救命ボートがはずれ、自分は爆風に飛ばされて、落下した先がはずれた救命ボートったと言いました。
 世の中には驚くほど、運のよい人もいるものだと思いました。その後、彼は大手映画会社の専務にまでなりました。
 本当に、戦争というものは、大きな力に左右されるなと思いました。強運、紙一重の差、驚いてみていただけで、そういう体験をしないで済んだこちらの輸送船は、更にもう一つ強運と、言えるかもしれません。

 魚雷から逃れられた私達の輸送船でしたが、台風は、ますますひどくなり、大海に舞う木の葉の如く、船が舞うという状態でした。兵隊は、皆激しい船酔いになってしまい、将校の中では、私だけが全く酔わず、宮本という隊長から
「君は、岐阜の山猿かと思っていたら、海賊の子孫ではないか。」と言われました。
 更に、台風は猛烈な勢いとなり、ついには、大砲の砲弾(たま)がゴロゴロと甲板を転がり始めました。それを見た時は体が凍りつくようでした。大砲の砲弾には、瞬発真管が付いていて、真管が壁に当たってしまったら、もうその瞬間に船もろとも爆破です。
即刻、はずしに行かなければならないのですが、ひどい船酔いの為、動けるのは私と満長という二等兵の唯二人だけでした。ゴロゴロと、ころがる砲弾をこちらも転がりながらつかまえ、甲板を、また転がりながら真管を引き抜く作業をするのですが、相手は新兵の二等兵、一刻を争う自体でも先ず抜き方から教えなければなりませんでした。
 夜明け前の、荒れ狂う嵐の中、真っ暗な甲板で、砲弾を抱えて転がりながら、二人で真管を一つ一つはずしました。

 自分だけでなく、船が飛ばされると思うと、それは大変な緊張感を伴うものでした。二時間ほど掛かったと思いますが、何とか真管を全て抜き終えた頃には、うっすらと夜が明けていて、満長に、「ご苦労さん。」と言いながら自分も心底ほっとして肩の力がいっぺんに抜けたようでした。
 二等兵の彼は、その体験で23,4才にして白髪に変わったと言っていましたが、事実、一夜明けて台湾のキールに上陸したときは、満長の頭は白くなっていました。人間の髪というものは、極限の緊張感、恐怖感に会うと一夜にして変わるものだと知りました。
 今現在、私の髪が薄いのも、そのせいかもしれませんね。

 キールは台湾北部の港で、そこで魚が真っ黒な固まりになって泳いでいるので、何かと訊いたら
「あれは、サメの群れです。」と船員に言われ、「あの中に落ちたら、助かりませんよ。」と、言われてぞっとしました。

 そのキールの港から、船で3時間くらいの台湾東部、カレン港ベーロン台地という所に陣地を構えました。南国の花や果物が自生するゆたかな緑に覆われた美しい場所でした。
 しかし、当時ベーロン台地は蛇の宝庫でもあり、マムシの数倍の毒をもつタイワンハブと、やはり同じコブラの種類で猛毒の、アマガサヘビ等で有名な所で、大袈裟ではなく、毒蛇がうようよといる場所でもありました。アマガサヘビは、青酸カリの20倍という毒をもちながらも、悪いことにコブラのようにいかにも毒蛇という恐ろしい様相ではありませんでした。細身のスーッとした見た目にはふつうの蛇という感じで、何処にでも出没してきました。タイワンハブは、攻撃性がありました。人家にもよく入り込むので、見つけ次第殺せという命令でした。
 夜行性のためチョウカーという長靴の中に蛇が入っていないか調べてから、靴を履くのが日課となりました。睡眠は、当番の兵隊が不寝番で巡回していて、警戒しながらも皆充分に取れました。
 私と部下3人でサトウキビ畑に入って、広い畑の中をタイワンハブに追いかけられたこともありました。シュッ、シュッと妙な音がしたので「何の音だ?」と訊いたら「隊長、蛇です。」と部下が叫び、その時は既にハブが鋭い牙をむいてこちら目掛けてジャンプしようと向かって来ていました。青くなりながら逃げ回りました。
 蛇に遭遇することは多々ありましたが、幸い、帰還まで誰一人噛まれずに済みました。

 食料は戦争中のことで内地へ輸出が出来ず本当に豊富でした。主に黒豚でしたが朝から肉が出ていました。
 砂糖が穫れ、台湾精糖株式会社、大日本精糖株式会社という製糖会社があり、その大日本製糖会社の寮が兵舎に使用されていて、食糧事情、宿舎事情共に大変良いものでした。
 陣地の中で、更に隊を3つの小隊に分け、私は第3部隊の小隊長として、部下30人と共に任務を遂行しました。小隊の中には、現地採用の台湾兵も5人おりました。2等兵で皆おとなしく、真面目な模範兵でした。
 ベーロン台地の気候は、年間を通して28度くらいあり、雨季と乾期に分かれていて、雨季の時は●ヶ月ほど雨が続き、残りの月はカンカン照りと暑く、豊かな良い場所ではありましたが、四季の風土をもつ、海のむこうの日本に思い巡らせたものです。

 わが隊は、高射砲隊で敵機がきたら砲弾を撃つのですが、沖縄に向かって我々の頭上を通過するB24は5千メートル以上もの上空を飛び、どう計算してもあたる筈がありませんでした。その上戦闘機グラマンは非常に敏捷で、我々の直径20センチもあるような砲弾などは、上下左右、自由自在にかわしてしまい、これ又、あたるはずがありません。
 それなので私は、節弾に徹して全く「撃て!」という号令は出さず、1発も打ちませんでした。上官には叱られましたが台湾の人たちには大変喜ばれました。というのは、敵の攻撃は隊のみならず多くの周囲の民家をも巻き添えにしてしまうからです。

 或る日、我々より少し離れた隣の隊が、海洋の機関砲隊でしたが、優秀にもグラマンを1機打ち落としました。しかし、1機でも打ち落とされたアメリカ軍は、仲間の復習の鬼と化して、総力を挙げて何十機もの編隊を組んで数時間にも及ぶ攻撃を執拗に仕掛けたのです。
 翌日、部下を連れて隣の隊に偵察に行った私の目に映ったのは、周囲の民家も土地も破壊され尽くし、隊は跡形もないほどの全滅で、全く判別のつかないあらゆる破片があちこちに飛び散るという悲惨極まりない光景でした。敵と交戦しない我々の隊を、台湾の人たちが喜び親切にしてくれたのも理解できます。
 しかし、例え終始、節弾に徹し「撃て!」の命令は出さなくとも、私は、小隊の隊長でありましたから、敵機グラマンが攻撃に来たときには、兵隊は大砲に就き、指揮官である私はグラマンに向かい、毅然と立っていなければなりません。立って指揮をとるというのは士官学校での教育ですが、グラマンから発射される何百発もの銃弾が、ピュッピュッpュと自分の体の傍を通り抜け地面に穴をあけていく様は、なんとも気持ちのいいものではなく、足も震え寿命も縮み、私は、勇気とは程遠い、唯、見栄と仕方なさで立っていたように思います。
 友人である第一小隊の隊長は多少でも違うと言って、戦闘帽の上にバケツを被って立っていて、士気に関わるから止めろと中隊長に注意されていました。

 我が隊は、カレン港とカレン港飛行場の警備も我々の任務でした。カレン港飛行場では多くの戦闘機が並んでいました。
 沖縄に向けての飛行隊、特攻隊の基地だったのです。
 その場所で、行きの燃料しか持たない17,8歳の純粋な若者達を警備しながら見送ったのは、思い出したくもない辛い悲しい思い出です。
 気象観測も任務のうちで、気象状況によってえ特攻隊の出撃が決定されました。彼らを飛び立たせたくなくて、こちらは良好であるが沖縄付近は大変な悪天候と伝え、止めさせたことが幾度かありました。そのような気配は決して微塵にも出しませんでしたがわかっていたのでしょう。
 ある日、「有難うございます。もういいです。行かせて下さい。」と特攻隊の隊員に言われました。美しい澄んだ瞳の若者でした。自分の作ったつげの櫛を形見として渡して欲しいと頼まれ、女の子の名前が書いてあったので、笑顔をつくり「恋人か?」と冷やかしたら「妹です。」と言っていました。
 特攻隊の中には、当然の事ながら、自らを兵器とするこの作戦を恐れる隊員もいて、二人乗りの戦闘機で出陣し、後ろの兵隊が、燃料が半分になると「今帰らないと帰れなくなる。
」と泣き叫ぶもので帰還してしまい、ひどく罰せられたもののそれを数回繰り返して、次に帰還したら「銃殺」と言われていた出撃の前日に、終戦になったと言う兵隊もいました。
 様々ですが、いずれにしても多くの若き青年の、尊い命が散りました。

 19年4月、家から電報で「オトウト ウマレル」と、知らせがありました。私は25歳になっていましたので、隊長に私の子だと思われ、
「お前のご両親も苦労するな」と、言われてしまいました。弟の誕生を大いに喜びました。
 東京で、やはり誕生を知らせる電報を受け取り、急いで上之保に向かった芙蓉から手紙が届き、「目の大きいとても美しい子です」と知らせてあり、あまりに可愛いため傍を離れられないでいて、寶主様に「豊彦におこられるよ。」とからかわれています。と書いてあるのを笑いながら読み、小さな弟との対面を楽しみに待っていました。

 戦争は、嫌なものです。
 アメリカ軍のグラマンと、日本軍のゼロ戦では、旋回力も飛行速度もグラマンのほうがはるかに上で、ゼロ戦が打ち落とされるのを目の当たりにしていて、力の差を感じていましたので、日本がこの戦いに勝つとは思いませんでした。しかし、何故か敗けるとも思わず、互角くらいに終わるのかなと予測していました。そして、何よりも、一日も早く終わることを願っていました。
 そうは思っていても、昭和20年8月15日、日本が敗戦国となり、終戦と言う事実を告げられた時には、わが耳を疑い、全員言葉もなく、唯、唯、茫然自失という状態になりました。

 日本軍は軍国精神の下、御国のために一命を捧げる覚悟を持って、戦争に臨んでいましたが、ゼロ戦に撃たれ、たまに、フワフワと落下傘で降りてくるアメリカ兵は
、航空服は着用していたものの、野球帽を横に被っている者もいて、まるでスポーツ感覚のように映ったときもあり、戦争に対する姿勢でも大きな違いを感じたものです。

 終戦直後、戦勝国である中国軍が陣地に初めて来たとき、隊長の私の身を危惧して部下達全員で私を囲みました。・・・・だそうです。というのも私は全くそれに気づかず
「なんとも狭苦しいな。」と、隙間から、中国軍を見ようとしていたのですが、第一部隊の隊長である私の友人の柴は、その同じ時、彼の部下達はずっと後方に下がってしまい、唯一人前に出されていて、部下のつくった人垣に埋もれている私を見て、「大変うらやましかった。」と、戦後、芙蓉に話したそうです。
良い部下達に恵まれました。

 終戦を過ぎて、翌年の帰還まで中国軍の捕虜として暮らしました。
 中国軍は、とてもおとなしく穏やかでした。日本軍への腹いせに、食事にひどい油、多分石油だったと思いますが、入れられ、全員下痢をしてフラフラになりましたが、その他は辛い思いもなく過ぎました。

 捕虜の身となっている期間、部下たちは、台湾の人たち相手に商売をしました。
 隊員の中に饅頭屋がいて、饅頭を隊の皆で作っては売りました。これがまた旨くて、台湾の人たちが大変喜んで買ってくれました。また、テキヤ(露天商)をしていた者もおり、人参を朝鮮人参風に干し、朝鮮人参もどきを作っては、フーテンの寅さんではありませんが、口上よろしく楽しく売ったのでしょう。体によく効き、丈夫になったとそれも喜んでくれました。
 結局、帰るまで饅頭班と人参班に分かれて商売をし、「隊長、今日の稼ぎは・・・・」と、持ってきました。帰還するときには、結構な額になっていました。
 日本に帰れば、極端に食料が不足しているのがわかっていましたので、事実、若い部下の中には、帰りたくないという者もいたくらいです。ほとんどの部下は年上で妻子がおり、自分は独身でしかも、家は岐阜で田畑や山を持っていましたから食べるのには不自由ありませんでしたし、芙蓉の家も軍需工場をしていて困っていませんでしたのでえ、全てを部下の頭数で割って渡しました

 部下達は大いに喜んで、バナナ等の土産物の山と小遣いを持って帰りました。
 私は、というと手ぶらでしたが、しかし七十人の隊員全員、無事生還できて何よりほっとしました。

 台湾を離れ、広島の大竹港に上陸したときは、皆、疲れきった顔をしていましたが、2年間生死を共にした者達との深い絆を感じながら、互いの無事を心から喜び合いました。
 軍隊は普通、帰還の際、大抵は二階級、最低でも一階級は上がって戻ってくるのですが、何の手柄も立てなかった私は、行きも帰りも少尉という珍しいものでした。

 昭和二十一年三月十九日、
宝主様、親父(勇祚様)の待つ、岐阜の家に帰りました。今のように通信手段が発達していませんでしたので、まったく突然の帰宅でした。
 家に向かうバスに揺られながら、
寶主様、親父(勇祚様)が私を見てさぞ驚き喜んでくださるだろうなと、久し振りに会うお二人とそして、幼い弟の姿を思い浮かべては、うれしさに心は沸き立つ思いでした。戦地に手紙を書いてきていた下の弟(中臣神使)は、東京教育大学(現筑波大学)の学生で一生懸命勉強していて家に居ないのは分かっていましたので、後日、私が会いに行こうと決めていました。その日もまた楽しみで、家族に恵まれた自分の幸せを感じていました。
 窓の外には私の限りなく愛してやまない上之保の風景が広がり、私を懐かしく温かく今にも抱きしめんばかりに迎えてくれていて、大きな安堵感と幸福感に包まれたものです。
 バスから降りると、驚いたことに家の前で親父(勇祚様)がうれしそうに私を待っていました。
寶主様が、「長男は三月十九日に帰る。ご馳走を頼みます。と、父神からお知らせを享けていたので、わかっていたよ。」とおっしゃりながら、
「勇祚は朝からずっと通りを見ながら、表玄関の戸ばかり拭いていたんだよ。」と笑ってお話になり、幼い弟(豊魂君)を連れて「よく帰ってきたな。」と、とても喜んで下さいました。
芙蓉まで東京から来て一緒に待っていて、本当に驚きました。その晩、皆で囲んだ料理の味は格別で、一足早い春らんまんの宵でした。

 しかし、戦争とは本当に嫌なものです。
 上之保の山や川を暗くなるまで来る日も来る日も一緒に駆け回り、いたずらをして遊んだ大切な友たちも、戦争に奪われました。
 大切な人を失くす大きな心の痛みは、敵も味方も同じです。

 戦争はするものではありません。人と人とが殺しあうのです。
 しかし、当時我々には「戦争」という選択肢しか持てませんでした。どうしても征かなければならない時代でした。

 そのような時代の中で同じ兵隊として、同じ戦争に出征した私ですが、わが身は安全な場所であったという偶然性、様々な場面で遭遇した偶然性、そして、数々の命拾いをした幸運、強運を思うと、それらは、今しみじみと「偶然神つくる」であったことを、感じるものであります。父神が終始私をお護り下さりながら、その時々に絶対必要な場面において、人間の常識では推し量れないほどの、「偶然」という形で、手を差し伸べて助けてくださっていたのです。
 人間の目に見えない神の精波をおくっていただいての「神つくりたもう偶然」をお享けして、私は明日をも知れない戦いから無事生還できたのです。本当に幸せでした。

「武の優位は邪悪たり
 武を蔵しつつ徳に立つ
 蔵する力に父神あり 父神に降魔の剣委ね」と御神訓御神歌、青年愛子団歌にございます。

 200万人以上もの戦没者を出した戦争でありますが、終戦を迎えてから、60年の春秋が過ぎました。長い時の流れのなかで、戦争の記憶も色褪せてきました。私の記憶も細かいものは、すっかり忘却の海に沈んでしまいましたが、しかし、武力の行為の愚かさ、悲惨さは今なお、脳裏の中に鮮明に残っております。

 戦争は絶対にするものではありません。
 「神とは形の生者なり」を真に知ることになりました戦争体験と共に、綴らせていただきます。

 「神に目覚め、親神の護らせ給う、日本の国土の美に咲く花として、同じく、国土をうつして栄えます他の国々の花と共に、地球の花園に我が花も好し、他もよしと、桜が梅になるものか、桜が椿になるものか、大神様はいつもおっしゃいますが、我咲く花の種類を知って、共に我が美を生かし仲良く栄える民草になろうではありませんか」と御神書にございます。

真に人類を思う正しき神に出会えた我々の幸せを思わずにはいられません。
「われに父神御母あり。何の宇宙に恐るるもののあらんや」と大安心に 安住希望に、
父神御母の御笑みに包まれて 神系御立国へ続く愛子街道、明るい道を明るく、共に歩んでまいりましょう。

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