誇りも高し(11)〜朝鮮の日本精神と反日

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雲泥萬里。雲泥萬里。雲泥萬里。

たんぷーです。

今回は「誇りも高し(11)~朝鮮の日本精神と反日」をお届けします。

台湾のことを書いた時、台湾の日本精神を書きました。
そして前回、朝鮮にもしっかりと日本精神は育っていたのです。
次回はこの朝鮮の日本精神をお届けします。、、
で終わりました。

えっ、朝鮮の日本精神なんて聞いたことない~と思われた方
多いですよね。

そうなんです。
それもそのはず、あまりにも短命だったからです。

台湾の統治は50年間、朝鮮の統治は35年間。
この15年間の開きはとんでもなく大きいのです。

50年あれば2世代、人によっては3世代に関わり、就学率は90%以上に及びます。
就学率と共に台湾の人達の日本精神も育っていきました。

しかし朝鮮の統治35年では長くても2世代途中です。
20歳まで文盲だった人でもまだまだ55歳です。
90%だった朝鮮が35年間で40%にまで下がり、
新しく育った子供たちはほとんど読み書きができましたが、
90%文盲時代に育った方々もまだまだ元気でした。

朝鮮の日本精神はまだまだ子供時代だったのです。
でも確実に育ってはいたんです。

国を愛し、守って行こう。公共のため、自ら身を犠牲にしても。
という精神が育っていたのです。
そして彼らは実直で純粋でした。

彼らは自ら志願兵募集に応募しました。

昭和17年には、採用数4,4077人に対して254,273人(62,4倍)の応募がありました。
儒教の国なので、応募するには親や親族の許可が必要でした。
これはその中での数字です。

すごい倍率の中受かった人たちなので、とても優秀でした。
一生懸命戦い、活躍してくれました。

志願兵一期生として入隊した崔慶禄氏(チェ・ギョンロク)は、将来を見込まれ朝鮮民族の指導者になるべき人と士官学校を勧められ、
訓練の合間に猛勉強をして士官学校に合格。
しかし同時期ニューギニアへの出陣を命じられ、悩んだ末エリートの道を投げ打って「大義に殉ずる」為にニューギニアに出陣。
進軍を続け、切り込み隊長として、活躍。
(終戦後、韓国陸軍に入隊し、中将となり参謀総長として活躍、さらに駐メキシコ大使、駐英大使、駐日大使になっています)

支那事変で活躍した父を持つ、金永秀氏(キム・ヨンス)は「七光で内地にいると思われたくない」と船舶兵科に志願。
ルソン島各地を転戦後中隊の先頭に立ち軍刀をふるって攻撃中、敵弾により壮烈な戦死をとげています。

撃墜王となった人もいました。金貞烈(キム・チョンヨル)大尉です。
戦隊長として南部スマトラで防空任務につき数々の武勲を立てています。戦後韓国軍に入隊し韓国空軍初代参謀総長に就任。
韓国空軍の生みの親」と言われました。

特攻隊にも大勢が志願してくれ、散っていきました。
彼らは靖国神社に祀られています。

戦後の軍事裁判で処刑された人もいました。

その一人がフィリピンで処刑された洪思翊氏(ホン・サイク)です。
陸軍士官学校、大学校を優秀な成績で卒業。少将に就任。
温厚で人望も厚く部下から慕われ、旅団長として支那の大軍相手に数々の戦果を上げています。
戦後はフィリピンの捕虜収容所の所長として、捕虜虐待容疑で軍事裁判にかけられました。
最初から彼を死刑にする為の復讐裁判ですから、弁護側の証人は0でした。
でも彼は裁判の間一言も弁明しないで、全ての罪を一身に引き受けて、帝国軍人として処刑台に上りました。

この軍事裁判は、軍人だけではありませんでした。

捕虜を19発殴ったという罪で軍属の19歳の朴成根(パク・ソングン)少年までもが死刑にされました。
日本側の終戦処理司令官馬淵少将は死刑の数時間前に面会し、「戦争に負けたばかりに君をこんな目に合わせて申し訳ない」と謝罪しました。
すると彼は、「なに、仇に裁かれては仕方ない。こうやってオランダを睨んで死にましょう。しかしアジアは独立しますよ。日本の勝ちですよ」
と答えて韓国語で「愛国行進曲」を歌って処刑されています。

この裁判では、1000人以上が処刑されましたが、その後の調査で3分の1以上が冤罪だったことがわかっています。

彼らは戦後、日本軍で訓練された韓国軍を作っていきました。
日本精神にのっとって。

戦後、ロシアに支援された北朝鮮軍が中国軍と共に南に攻め込んできました。
これが朝鮮戦争です。

北の兵士はほとんどロシア仕込みの戦士でした。
迎える南の戦士は日本軍出身者でした。

歴戦の勇者たちでしたが、南は少し前までは「日本」だったので、大東亜戦争に負けたばかりで、ほとんど武器も戦車もありませんでした。

攻める北朝鮮軍は兵力10万5千人、火砲3千百門、戦車約2百両、自走砲百50両一挙に5方面から38度線を超えて南側に侵攻しました。

これを迎え撃つ南側には戦車は一両もなく、戦闘機も練習機10機しかありませんでした。

このままでしたらあっという間に占領されて、朝鮮半島は全て北朝鮮になっていたでしょう。

でも、日本軍出身の韓国軍は頑張りました。
捨身で防戦したのです。

圧倒的に優勢な北朝鮮軍に対し、蔡(チェ)参謀総長(旧日本軍少佐)は日本陸軍がとった戦法、「肉薄攻撃」を命じました。

韓国軍兵士たち(旧日本兵)は自己の犠牲をも厭わず、次々に地雷を抱いて戦車の下に飛び込み、敵戦車を爆破させていったのです。

もし緒戦において、彼らの捨身の防戦がなければ、北朝鮮軍は一挙に朝鮮半島南部を制圧し、北朝鮮による半島統一が実現していたでしょう。
そして日本は共産国となった隣国の脅威に、常にさらされていたでしょう。

多大な損害を与え侵攻を遅らせはしましたが、戦力の差は如何ともし難く、開戦4日目には北朝鮮軍はソウルに突入します。

韓国軍本部はソウルを放棄し、各師団が撤退する前に漢江大橋を爆破してしまいました。漢江の北側に取り残された各師団は指揮系統が混乱してまとまりがなくなってしまいました。

そこで当時予備役だった金錫源准将は「これでは勝てない」と義勇兵を立ち上げ、首都師団長として戦場へ向かいます。

その途中将兵や警察官が退去しているのに出会い、彼は腰の日本刀を抜いて高く振りかざし、大声で呼びかけました。
「お前たちはどこへ行こうとするのか。玄界灘に追い落とされるのか。この金錫源が先頭に立つ。向きを変えて北へ行こう。私と共に敵を撃退しよう。」

士気が上がった将兵たちは北の大部隊を4日間釘付けにしました。

彼らの奮戦ぶりを見て救援に駆けつけたアメリカ軍兵士の士気も高まりました。

旧日本軍出身韓国軍の勇敢な戦いがアメリカ軍の士気を高め、奮い立たせ、最終的に北朝鮮軍や中国軍を38度線の北側へ押し返したのです。

東京陸軍少年飛行兵学校に入隊し、後に韓国軍空軍大佐になった崔三然氏(チェ・サムユン)は自身の著書『日本は奇跡の国 反日は恥』の中で
「日本が統治時代に半島にもたらしたものは、国土のインフラだけではなく、無形の要素である人的インフラ「日本の精神要素」を学んだ韓国人であった。私のような人的インフラが、多方面に渡りその後の韓国の発展の基盤になった。」

また日本について、
「日本人は悪いことはしていない。今のアジアは日本がいなかったらアフリカのように大陸全体が欧米列強に侵略されて植民地化されていたに違いない。
白人優位の世界をひっくり返した日本の犠牲と努力のおかげで人類普遍の価値が共有できる社会を、今満喫している」
と書いています。

1982年の春、ある塗装機メーカーの会長がソウルに出張、仕事を終えホテルまで帰ると、50歳をすぎた韓国人男性が五人駆け寄ってきました。
代わる代わる会長の手を握り抱きついて目に涙を浮かべていました。
「先生、お久しぶりです。」
会長はかつて彼らの小学校の先生だったのです。

こんなに心が通じ合っていたのに
今では世界屈指の反日国家「韓国」です。
一体いつこのようになったのでしょうか?

これには韓国の事情と、アメリカの思惑がありました。

日本と戦って勝利したアメリカは、二度と日本に力を与えたくなかったのです。日本の影響力を無くしたかったのです。

そこでアメリカで教育を受け、日本と韓国が再び結束しないように強硬な反日主義者である李承晩氏(イ・スンマン)に権力を持たせました。
アメリカのバックアップを得た李承晩氏は次々に政敵を倒して実権を握り、1948年5月大韓民国が設立されると同時に、初代の大統領に就任しました。

実権を握った李承晩氏でしたが、彼には弱みがありました。

選挙で大統領になったとはいえ、韓国には李王朝の正当な後継者(注1)が存在していたからです。「大韓民国建国の正当性」が疑われる状態でした。
また日本の統治時代の方が良かったという声もくすぶっていました。

そこで李承晩氏は歴史捏造を行い、「李朝は日本によって滅ぼされた。日本統治時代は地獄であり、そこから朝鮮人を救ったのが大韓民国政府の軍隊だった」という事にして、日本を悪玉にして、国民の不満を政府に向けないようにして、大韓民国の建国を正当化したのです。

しかし国民は日本統治時代をしっかり覚えています。そこで「嘘」の歴史を定着させる為に、徹底的に言論を統制し、日本統治時代を懐かしむことを公に口にすることさえ政治犯としました。

この為、韓国成立後の2年間で投獄された人の総数は、日本統治時代35年間の投獄者の総数より多かったのです。

もう一つ李承晩氏が歴史捏造をしなければいけない理由がありました。

実は韓国では朝鮮戦争前後にものすごい数の虐殺事件が起こっています。
そのほとんどが李承晩氏の責任でした。
四・三事件、国民保導連盟事件、大田刑務所虐殺事件、、等々
ゲリラ討伐のため李承晩氏に任命された支那軍出身の師団長が、虐殺しまくったのです。

また南に攻めてきた北朝鮮軍と中国軍も虐殺の限りを尽くしています。

李承晩氏はスパイとみなした人、疑わしき民間人を殺す権利を全ての軍人、警察官に与えています。

北と南、占領地が入れ替わるたびに惨劇が繰り広げられ、朝鮮戦争の間だけでも犠牲者の数は130万人以上とも言われています。

虐殺にはかなり韓国政府が絡んでいたので、この恨みが政府に向かわないように
「朝鮮民族の不幸の原因は全て日本による朝鮮統治にある」と国民の「恨み」を日本に向けさせる事にしたのです。

そこで歴史を歪曲し、「日本の蛮行」を創作しました。

1954年10月李承晩氏は「韓国の生徒たちへ日本帝国主義の侵略性とその韓国への悪意を教えよ
と命令しています。

こうして次第に日本への「恨み」は増幅して行ったのです。
そしてこの作られた歴史歪曲を利用し北朝鮮が赤化の罠(注2)を仕掛け、日米韓の分断を図っていきました。

こんな歪曲された反日政策のため「日本精神」を学んだ韓国の人たちはどうなったでしょう。

祖国のために命をかけて戦った彼らは、戦後の韓国で
「日本のために利敵行為をした親日派」「民族の裏切り者」
として糾弾され、その遺族もまた迫害されました。

前述の『日本は奇跡の国 反日は恥』の著者、崔三然氏(チェ・サムユン)はそんな韓国を去り、晩年は日本で過ごしました。

でもただ去ったのではありません。

彼は愛国者であり、親日家でもあり、立派な日本精神の持ち主でもありました。

来日してから亡くなるまでの間、講演を続けました。

「日本の真の強みは独特の伝統文化の中で育まれた優れた国民性。
戦後、自主性の欠如と自虐史観に落ちいっているが、この国民性の根底は強固で不動であり、日本は必ず再起する。

日本人は誇りを失ってはいけない、誇りは力の源泉。日本こそ指導者になるべき国であり、北朝鮮の赤化の罠にはまらないで、」と訴え続けてきました。

そして日本軍と一緒に戦った朝鮮人がいた事を忘れないで。
あの時代が産んだ友情は国の誇りであり、日韓未来への遺産である。

その真剣な声は人々の心に突き刺さり、多くの人の心を捉えました。

2020年92歳で亡くなった時、なんの肩書きもなかった崔三然氏ですが
その訃報を伝える記事が大きく産経新聞に載りました。

「日韓の絆体現 元空軍大佐死す」

(注 1)李朝の正当な後継者として

朝鮮は日清戦争後初めて独立国として認められ、李朝の王であった純宗が皇帝となり、日韓併合後日本は王として皇族に準ずる待遇を与えています。
2代目李王となった李垠(リギン)は日本の皇族出身の梨本宮方子氏(なしもとのみやまさこ)を妻とされています。
終戦後韓国に戻ろうとしましたが李承晩から帰国を拒否されています。

(注 2)赤化の罠

北朝鮮は自国主体で南北統一を考えている。
武力統一ではなく、謀略により影響力を発揮する事で内側からの変革、日米韓の間を引き裂いて統一へ持っていこうとしている。
という考えを「赤化の罠」と呼んでいる。
実際、慰安婦議連は最近北朝鮮からの資金援助で動いていたことが証明された。
また野党「共に民主党」の党首は数回にわたり北朝鮮に送金していたことがわかり、国家反逆罪として逮捕状が出ている。しかし議員特権で逮捕されていない。

参 考   
日本は奇跡の国 反日は恥 崔三然 ハート出版
本当は素晴らしかった韓国の歴史 松本國俊 ハート出版 
こうして捏造された千年の恨み 松本國俊 WAC文庫
今こそ韓国に謝ろう 百田尚樹 飛鳥新社

ウィキぺディア 李承晩

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